TechとPoemeの間

Qiita に書かないエンジニア業の話

採用活動とマーケットインパクト

マーケットインパクトとは

金融の世界には「マーケットインパクト」という言葉がある。市場 (マーケット) での自分自身の行動が市場に影響を与えてしまうことを言う。例えばある株式*1を大量に買い入れるために注文を入れると市場に流通する株式を買い上げてしまうために需給バランスが崩れ、当初よりも買い入れ時の価格が上がってしまうようなことを指す。自分の出す注文量に応えられる株式の流通量が市場にないときに起こる。

世の中のプロの投資家は人間の判断での売買だけでなく株式の値動きなどをモデル化した上で売買アルゴリズムを組んでマーケットに挑むわけだが、このアルゴリズム開発を難しくするのがマーケットインパクトだと言われる。目論見よりも不利な方へ価格が動いてしまうマーケットインパクトが働くためにアルゴリズムの思惑どおりに売買が成立しない、というケースは多いらしい。*2

転職媒体を用いた採用活動とマーケットインパク

自分がここ数年関わるようになったキャリア転職の採用活動でも、このマーケットインパクトは存在すると感じている。世の中には様々な転職・求人媒体があって、転職検討者や潜在候補者に企業からアプローチする手段も増えてきた。その環境下で、採用活動も 『THE MODEL』 よろしく定量的な管理をするべきで、採用活動とマーケティングは同じでファネルの形状なので通過率を前提に採用目標数から逆算してファネル流入数ターゲットを定め、その達成のための行動量をKPIに置く。目標から逆算してアクションを決める取り組み自体は絶対に必要だし、計測可能性を担保しない改善活動はワークしない。ただ、ファネルだけを見てひたすらアクションを打ち続ける採用活動をすることは悪手だ。 それは、単純に「穴の空いたバケツに水を流すな」で済む話でもあるのだけど、それに加えて 普通のプロダクトマーケティング以上にマーケットインパクトで自分たちの首を絞めるんじゃないか、と思っている。理由は2つ。

プロダクトはピボットできるが、会社はピボットできない。

一般的な商材やプロダクトのマーケティングをする際、企業はマーケティングのさまざまな戦略を微調整したり仕切り直しをしたりすることができる。事業の方針を大きく転換することを「ピボット」と言ったりする。ベンチャー企業は体力が続く限り、ピボットや微調整を繰り返して何度も試行を重ねて、プロダクトや事業が成長する道を模索する。その過程で同一の顧客セグメントにアプローチする事があっても大きな問題になることはないだろう。

採用活動の場合はどうか。採用候補者に企業を知ってもらい、さまざまな縁が繋がって入社にいたることをファネル・マーケティングに例えるとき、買っていただく商品は企業そのものである。採用活動で買ってもらう企業は1つしかない。採用を成功させるために企業のあり方をピボットさせるわけにもいかない。*3

自分たちが直面している人材市場の狭さ

「企業のピボット」が出来ないことがなぜ問題なのかと言えば、企業に対して間違ったイメージを抱かれたり、シャープではないメッセージを送ってしまった時に、再アプローチしても最初に与えた微妙な印象はそう簡単に拭えないからだ。

アプローチに失敗した候補者に再度アプローチできる可能性が生まれるにはそれなりの時間待たなければいけない。人材市場は有限なので、そうやって潜在候補者数は減っていく。新卒のポテンシャル採用だったら能力の高い学生から採っていけば良いし、毎年供給が洗替えされるので「流動性はとても高い」状態と言っていいだろう。*4 キャリア採用市場はそれが通用しない。職種によっては「業界」が狭いゆえ、採用活動を1、2年やっていれば同じ顔に出会う可能性も「無視して良いほど低い」ことはない。業界内の人材の間にある程度のネットワークもあるだろう。そうすると企業のイメージや評判も伝わりやすいから、微妙な候補者体験を経験した話も比較的容易に広まる可能性がある*5。「500通のスカウトを送信すれば、そのうちn%の人から返信が来る」という単純計算で採用活動をしてもうまく行かない理由のうちいくつかはここにもあると思う。

じゃぁどうするの

最もらしく語ってきたが、そんなこと求職側も求人側も承知の上だよ、という面もあるだろう。求人側の目線から「じゃぁそういう環境下で、どう採用活動したらいいの?」ということについて抽象的な話をする。具体的な施策への落とし込み方は会社によって違うだろう。書いてみると当たり前のことなんだけど改めて重要だなって思う。

ファネルの流量より通過率を見る

ファネルマーケティングのセオリーであり、言い換えるならフロー効率をリソース効率より優先するということだ。たくさんの候補者を選考プロセスに流し込む前に、たくさんの候補者が流れ込んできたときに問題になる過程を早めに察知して改善する。何が問題になるかは様々な文脈に依存する。

実際の企業の現場でうまく伝えきれないケースが多い*6のだが、フロー効率をリソース効率より優先するということは、「数の多いことを評価しない」ということを意味しない。フロー効率がある程度高い状況を作り出したら満を持して流量を増やすための蛇口を開いて「育てた果実を食す」フェーズに移行するべきだ。ただし、この蛇口の開き方も突然フルスロットルというわけではなく、各工程に本当に無理が出ないかを確認しながら少しずつ開いていくのが理論上は望ましそうだ。

細かいサイクルでの効果検証、仮説検証を行う

フロー効率を重視する戦術の一つがバッチサイズの縮小、つまり「1度に流す流量を短く刻む」ことだ。当然、1回の効果検証のコストを下げたり、アジリティを向上させるのも狙いなのだが、マーケットインパクトを真正面から食らうことの回避にも役立つ。極端な例だが、10個の施策の効果検証を行うに際して、最初の2,3個の施策でほとんどの潜在候補者へアプローチを行ってしまい、残りの施策を試そうにもアプローチした段階で「あのとき断った企業」と思われてしまえば手詰まりである。なるべく早い段階で小規模に勝ち筋を見極めて、少しずつスケールアップする、という順番を忘れないようにしたい。

採用手段のポートフォリオを組む

仮説検証を行う上で、仮説を複数用意して、その複数のプランをプランA,B,Cの順に実行したり、並列に実行して検証したりする。大事なのは複数の手段や仮説があることだ。キャリア採用活動の場合、エージェントや転職媒体などの採用チャネルのポートフォリオを組むことは教科書に載る基本だし、それぞれのチャネルでアプローチ方法を用意して二枚腰三枚腰の取り組みができればなんとか自分たちなりの勝ち方が見えてくるんだろうと思う。もちろん、それが大変なんだけれども。

タレントプールの活用

「タレントプールとは何か」の話は、採用というか人事領域を担っている人には釈迦に説法すぎて恐縮。知らない人もググれば親切な記事はたくさん出てくるだろう。

「一度アプローチをした人材にしばらく再アプローチできない」というゲーム構造を変えるには、最初に候補者とコンタクトを取れたときに「またお互いの状況が少し変わったときに可能性を模索したい」と思わせる他ない。とはいえタレントプール化するためにもカジュアル面談などの機会にこぎつけないといけないので、スカウトの時点で候補者体験の上がるアプローチの重要性は変わらないと思う。

最後に: 採用ゲームのプレイヤー個人ではどうしようもない話

自分のメインフィールドであるソフトウェアエンジニアやシステムエンジニアの採用マーケットは、自分が関わるようになった4年の間でも過熱の一途を辿っている。求職側としても引く手数多だったり給与を上げる手っ取り早い手段になっていたりするのもあり、人材の「採った・採られた」は業界全体で見るとゼロサムゲームだなと感じることもある。それって産業全体が成長してる感じがしなくて「なんだかなぁ」と思うこともあって、長い目で見て「育成できる企業」が強いんだなぁと、こういうノウハウを整理しながら改めて思う。

最近、日本の伝統的大企業での IT 人材リスキリングの取り組みが始まった事例がニュースで取り上げられたり、ユーザベースが Play Engineering という取り組みを発表していたけど、まさに中長期的にはこういう取り組みで人材を良い意味で「輩出」できる会社が増える必要があるんだなと、業界の隅っこでひっそりと考えた。


*1:株だけじゃなくて金融商品全体に当てはまるが、金融疎い人向けなので端折ってる

*2:ちなみに私自身はアルゴリズムトレードには関わったことが無いので、全て「聞いたことがある」レベルの話だ。

*3:「別の商材をアプローチする」という意味では異なるポジションのオファーをするということは考えられるのでは?という人もいるかもしれないが、候補者が重視すべきはポジション以上に企業とのマッチだし、企業側も最適なポジションが他に用意できるなら最初の採用プロセスの中で提案するべきだろう。

*4:ただし、イメージの再生産みたいなのは起きるだろう。新卒採用に仕事で取り組んだことがないので詳細を知らない

*5:もちろん、逆に「良い候補者体験をした企業」の話も流通しやすいと感じている

*6:僕の能力不足で